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[この人の行く道]第六回、満を持してご登場頂いたのは、
和興ニット、三代目の代表取締役を務める國分孝一さん。
ヱニシ商店のボウタイシャツやフタイロガサネショールなどのカットソー商品を共同開発して下さっている和興ニットは、70年以上の歴史を持つ会社です。
昭和初期、孝一さんの祖父・新吉さんがミシン一台から興し、
二代目の父・忠明さんが昭和の高度成長期からバブル時代にわたり、

縫製会社として飛躍的成長を遂げました。
その後の激動の時代を引き受けてきたのが1993年に三代目代表となった孝一さん。
その歴史はまさに戦後のモノ作りの歴史、ニット業界史とも重なります。
莫大小と書いてメリヤスと呼んだ時代から、日進月歩の技術成長を遂げ、広くニット地と総称する時代を経た、伸縮性を持つ生地。カットソーと呼ぶようになってからは、ますます私たちの暮らしに欠かせない存在となっています。

その歴史を重ね合わせながら、
(株)和興ニットの未来への展望をうかがいました。

この人の行く道 vol.6

〜カットソーの可能性に挑む〜

株式会社和興ニット 

國分孝一さん

 國分さんが、和興ニット三代目代表となった1993年は、バブル崩壊と呼ばれた時期。1991年から始まったこの時期を経て、日本の経済は1973年から続いた安定成長期が終焉を迎え、”失われた20年”が始まったのでした。けれど当時の日本社会は、それまでの成長神話を固く信じ、課題や問題を先送りしながら、見かけの成長を作り続けているように見えました。

「私が父の後を継いだ頃は、大手商社・大手アパレルがお取り引きの中心で、年商も右肩上がり。バブルが崩壊した1991年から1993年でさえも成長を続けていました」と國分さんは当時を振り返ります。

昭和42年(1967年)に建設された両国の本社ビル。かつてはこの地で縫製も行っていましたが、この時期から企画・営業と生産の現場を別々になりました。

「当時の(株)和興ニットは、本社で営業・型紙制作を行い、それを岩手・宮城・深谷の工場で生産していましたが、大手からの受注が減るとどうしても稼働率が下がり、年間の受注確保が大変難しくなっていきました」
 1990年代の中頃、それでも巷にはモノがあふれ、一般の消費者にとっては、水面下で起きているこのような現象には、なかなか気づく事ができなかったかもしれません。今でこそ、野菜や肉などの原産国や、電化製品や衣料品の生産地を確認する人が多くなっていますが、その当時はかなり無頓着でした。気づけば、衣食住の生産物のほとんどが、海外で生産されているという状態だったのではないでしょうか?
 電気製品を例に挙げれば、1980年代までは故障したら修理するというのが当然でしたが、90年代に入ると壊れた機器を修理に持って行くと「これは新しく買った方が早いですよ」と言われるようになって行ったのです。けれど、ほとんどの消費者がその変化を問題視することもなく、むしろ「豊かさ」の証と捉えて素通りして来たように思えます。


激動の90年代と

リーマンショックを超えて

 

「そんな中、1995年頃だったでしょうか? 大手量販店が衣・食・住すべてに渡るジャンルで一貫したイメージを持つブランドを展開する!ということで、そのカットソー部門における企画開発から関わるという仕事が入って来たのです。このお取り引きで、私は初めて個々の店舗にでかけ、商品の陳列・照明・ストックの置き方など、小売店の現場を知ることが出来ました。このブランドは長くは続きませんでしたが、経験という得難い財産が残った! と思っています」
 この頃、國分さんは本社機能と、工場機能を分離させる事で生き残りをかけながら、一方で(株)和興ニットが長年続けて来たOEM(完全受注生産)について、深く考えるようになっていきました。

「それまでは『この商品をこのように作って欲しい』というご注文に対して完璧に応えるのがOEMの役割だと思っていました。けれど注文通りに作る事が必ずしも、双方の利益にならないのでは? と考えるようになったのです。たとえば袖や襟の付け方一つにしても、注文通りに行うには手間がかかるため工賃が上がってしまう場合があります。そんな時にもっと合
 

カットソーの歴史とともに歩んだ実績。

それを活かす方向性を模索した日々を経て・・・

和興ニットの生き字引。勤続53年の取締役部長・鈴木磐根さんは、無口なムードメーカーです。

現在、ベテランパタンナー・工藤妙子さんと若手パタンナー・齋藤さんが働くフロアはかつて営業フロアでした。

若手パタンナー・斎藤智之さん。ヱニシのフレックスキャップは彼自らミシンがけしてくれました。

(株)和興ニットが扱う、伸縮性のある編み生地は、かつてメリヤス(漢字で莫大小と書きます)と呼ばれ、おもに下着などに使われていました。もともとメリヤスという言葉は、ポルトガル語やスペイン語で靴下をさす言葉。それが日本ではメリヤス編みの腹巻きや下着全般をさす言葉として使われるようになったそうです。

 現社長の祖父の時代、昭和のごく初めの頃、ミシン一台から始まったという(株)和興ニットも、昭和28年(1953年)の創業時には「國分メリヤス製造所」という名前でしたし、その後昭和31年(1956年)に組織変更した際も「國分メリヤス」として登記されていました。
 その後、ファッションの世界が大きく様変わりし、かつてはインナーウェアだったTシャツがお洒落着としてアウターに用いられるようになり、メリヤスという言葉は影を潜めていき、伸縮性のあるメリアス編みの生地をニット地と呼ぶになりました。「國分メリヤス」が「和興ニット」と名を改めたのもちょうどその頃、1966年のこと。
 その頃の日本は1964年の東京オリンピックを機に高度成長期にさしかかっていて、ニット縫製業も新しい産業として注目を浴びる存在だったのです。やがて更に時代が進み、著名なファッションデザイナーや有名ブランドが新しい素材である伸縮性のあるこの生地を用いてデザインするようになり、90年代以降はカットソーと呼ぶのが一般的になりました。カットソーとは、カット(裁断)&ソー(縫製)を略した和製英語ですが、Tシャツ・ポロシャツなど、丸編み機で編立された生地を使っての製品を指すようになったわけです。

 このような歴史を背景に、(株)和興ニットもスポーツウェア・カジュアルウェアから、若い女性やミセスを対象としたお洒落着まで多様なニーズに対応するようになったのです。
 

昭和58年(1983年)、工場に勤める方も含め、総勢250名での沖縄への社員旅行の記念写真です。

今なお製造の現場として稼働している岩手工場。熟練の職人達が縫製の工程をこなしています。

2011年3月11日の東日本大震災で、津波により流されてしまった宮城工場。

今現在岩手工場で働いている方達。世代はバラバラですが、仕事となれば集中。休み時間には世間話に花が咲きます。


 

和興ニットHPはこちら

和興ニットとヱニシの共同開発商品はこちらから

アニエス.b、FILA、エレッセ、BLACK&WHITE・・・・

一世を風靡したブランドを底支えした一流の技術

「その頃は、誰でも知っているスポーツブランドのスエット上下も生産してましたが、現場ではB品という販売出来ないものが、どうしても数枚出てしまいます。それをまだ幼かった子どもにパジャマ代わりに着せていたら、同級生から驚かれたりしましたね。B品でも機能面では何の問題もなく、長期間着せていました。何度も洗濯するうちに、更に着心地が良くなったものです。この頃に素材・型紙・縫製に間違いがなければ、品質面で何の問題も無いという事を学びました」
 ところが21世紀を前にして、アパレルに限らず、衣食住すべての生産の現場で、異変が起こり始めました。日本国内での生産物は値段的に折り合わないという理由で、大企業が次々と中国を中心とした東南アジアに生産拠点を移し始めたのです。

着心地がよく、長く着続けてもらえ、もう一度同じものを
という要望に応えられる『定番』を作りたい

「もっと、ここがこういう風になっていたらいいのだけど・・・とか、着ていてここに不具合があるなどといった、最終消費者の声を製品に反映して行く事が、モノ作りでは一番大切なのではないだろうか? と考えていたので、ヱニシとの共同開発製品が、そのきっかけになるのではないかと思ったのです」
 そして2011年の初春。いよいよ初めての商品開発が始まった矢先のことです。
 3月11日、東日本大震災が起こりました。この頃、岩手と宮城の二つの工場だけになっていた和興ニットは、そのうちの宮城の工場を津波で流され、失ってしまいました。

 こんな大変な状況の中でも、すでにリーマンショックを乗り越えた國分さんは、穏やかに対応して下さり、この年の夏、(株)和興ニットとヱニシの共同制作商品第一号が誕生したのでした。
「今、私が考えているのは、着心地が良くて長く愛用し続けることができ、何年も経って服としては着られなくなって別の用途で使うようになった時に、やはり同じ物が欲しいと思っていただけるような、着心地と品質を兼ね備えた商品を作り上げる事なのです。たとえば10年経過した時に同じ商品を求めてこられた消費者に、『はい、ありますよ」と提供出来るような『定番』を作る事なのです。もともとOEM(完全受注生産)会社ですし、今後もOEM中心に仕事をして行くつもりなので、常に最新のデザインを打ち出すような事はできません。けれど、長年の経験によって培われた技術と、素材を選ぶ目を駆使して、普遍的で飽きのこない、愛される『定番』を作り上げていきたいですね」

 

平成5年(1994年)、國分さんが三代目の社長となった頃に制作された(株)和興ニットの自社パンフレット。会社概要や取引先などが記載されています。

理的で効率の良い方法を提案することで、発注元である企業にとってもコストを下げられるし、工場も効率よく稼働出来るということに気づいたのです。もちろん長年のお付き合いがあるお得意様に対しては、以前からお伝えしていた事なのですが、この頃から意識して行うようにしました」  けれどそんな努力も虚しくなるような出来事が2008年9月に起こりました。いわゆるリーマンショックです。それはアメリカの不動産投資会社が、低所得者向けの住宅を販売し、大量のローンの焦げ付きを招いた事がきっかけでした。
 この頃から、私たちが日々の暮らしに用いるリアルな「お金」と、バーチャルな市場であたかも大量にあるかのように流れる「お金」が別物であるということが明確になって行ったのです。
 リーマンショックは、もちろんバブル崩壊以降も見かけだけ順調そうに見えていた日本の産業にも大きな打撃を与えました。
 おおらかで楽天的な國分さんも、さすがにこの時は本社を閉じようと考えたと言います。

「工場だけは何とか残せる状況だったので、工場を残して本社を閉じるということを本社の社員や受注先に伝えたところ、『だったら本社も続けて欲しい!』という受注先が数社あったのです。その方達に支えられ、何とかここまで続けることが出来たのだと思います」
 このように組織の編成を変えたり、受注に工夫を凝らし、発注元の支えがあって(株)和興ニットは、何とか時代の変化に対応しながら、存続できたと言えるでしょう。けれど日本のアパレル産業のすべてが、この時代を生き延びられた訳ではありません。
  たとえば一枚のシャツ。それが綿花や蚕と行った原材料から始まって最終的な商品になるまでには、さまざまな工程が必要になります。まず綿花や繭を糸にする作業、そして糸 をさまざまな色に染める作業、布に織ったり、編んだりする作業。(株)和興ニットは縫製会社ですから、こうした工程があって初めて一枚のシャツにするための作 業である、型紙作りや布の裁断、縫製を行うことができるのです。

「こ の20年の間に、縫製に至るまでの”川上”にあたる各工程を担う多くの業者が、受注の半減や後継者不足で廃業せざるをえなかったのです。(株)和興ニット も、三代目の私で終わるかと思っていたところ、娘の夫である博史が四代目として名乗りを上げてくれたので、何とか次世代につなげられるかどうかというとこ ろです。今は彼とともに、長年のお付き合い

がある染めや編み立てを行う会社にうかがい、ご挨拶をすると同時に、四代目にカットソーの製品ができるまでの工程を学んでもらっているところです」

 

ヱニシが國分さんと初めてお会いしたのは、2010年のこと。全国の地場産業や各地でモノ作りをする人や企業を取材、記事として紹介、その方達と繋がり ながら共同で商品開発して販売するという趣旨をお伝えした時、國分さんがこう言って下さった事が鮮明に記憶に残っています。「どうせなら、心のこもった あったかいモノを作りたいよね」
 國分さん自身、長年OEMとして製品を作って来て、出来上がったものがどのような評価を受けているのか、直接消費者の声に触れることが出来ないという思いがあったからだということ。

 

和興ニットとヱニシの共同開発

<福まねきボウタイカットソー>着心地が良くて、自宅で選択出来てすぐに乾く。しかも仕事運・恋愛運をUPさせる占星術カウンセラー・中谷マリがプロデュースした開運搾るの刺繍つきです。

フタイロガサネショールは、綿カットソーとポリエステルのチュール地という異素材を重ね合わせ、風合いのコンビネーションと色のマッチングを楽しめる逸品で、四季を通して使えると大人気。購入はこちらから。

この考えは、ヱニシ商店の商品コンセプトである「長く使え、最後まで使い切ること」に合致しますし、同時に環境問題に敏感で節約意識の高い多くの消費者が潜在的に望んでいる事でもあるはずです。
2015年5月。ヱニシは、飲食を提供する荒木町『月の蛙』とヱニシ商店を合体させて、代表・古賀愛子の実家である神田に移転することで、実店舗を併せ持 つウェブマガジンへと展開していきます。ここでは(株)和興ニットとの共同開発によるハイクオリティな商品を、直に見て触れて、感じていただくことができ るでしょう。
「安倍政権誕生後に進んだ円安の影響で、海外工場に委託していた大手アパレル・商社が国内生産に戻そうという動きがある事も事実のよ うです。一方で長年国内での発注が無かったので、倒産および転業・廃業した生産会社が多くあり、現在は受注が戻っても、思うように生産出来ないという ファッション業界の現実もあるように思えます。そんな中、今後業界の生き残る道として、売る側・作る側が十分に信頼し合い、お客様が笑顔になれる製品制作 を基本にしながら、これ以上ファッション業界が疲弊しないバランスの取れた業界になっていきたいと思っています」
 このように話す國分さんの表情は、落ち着きと静かな自信に満ちていました。

 

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